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小津安二郎のキャメラ番 厚田雄春の世界
2009/01/09 00:05

プロローグ

社会情勢の急激な変化のなか、ハリウッドの桁違いの物量による娯楽作ばかり見た後、小津映画を久しぶりに観ると妙にほっとします。そして映画を観終わった後の爽快感を格別です。今回は、個人的に好きな小津映画を再度取り上げます(1回目はこちら)。小津組カメラマン厚田雄春氏に焦点を当て、エピソードを交えながら、小津映画の作風を要素別に少しばかり掘り下げてみたいと思います。

厚田雄春“キャメラ番”

小津監督より1歳少し年下の厚田カメラマンは、戦前の小津作品を担当した茂原カメラマンの助手に始まり、その後15年もの間、撮影助手を続けました。自らを「桃栗三年柿八年、厚田雄春十五年」と呼ぶように、この15年間に小津の作品の呼吸、つまり小津監督のように考え、感じ取り、そして観ることを体で会得しました。厚田本人は、カメラマンというより、小津監督の“キャメラバン”と称していました。キャメラ”番”とは、大事な機械にもしものことがないようにカメラの番をする係りです。つまり、小津組の“番”頭というべき存在だったと言い換えることもできます。

画像

ローアングル撮影

小津の作品はローアングル・ローポジションが原則ですが、俳優に舞台のような長い芝居をさせるのではなく、「寄ったり、引いたり、引っくり返したりして撮ったショットをつないでリズムを出した」(厚田談)と言うように作風を特徴付けるひとつの手段でした。

一方、「小津さんが何を望んでおられるかは分かっていました。よく雑談的に『俺はねえ、人を見下げることはきらいなんだよ。俯瞰っていうと見下げるじゃないか』とは言っておられましたよ。」と監督のローアングルに対する心情的なこだわりが垣間見えます。

しかし、実際本音としては「先生みたいにローアングルから描くということは少ないものですね」と尋ねたら「そりゃ描きにくいよ。だから、そこにおれの位置があるんだ」と答えたように、ローアングルにこそ小津作品のポジションがあることを十分意識していたようです。

秋刀魚の味(1962)


ライティング

撮影のアングルだけでなく、もうひとつのこだわりがありました。それは撮影のライティングです。例えば、日本間の撮影で畳が写る場合は、どうしてもローアングルでは畳の縦と横の目の違いが際立ってしまいます。縦と横の目の影が出ると構図がこわれてしまうと考えた厚田カメラマンは、ライトを上から強く当てるのではなく、低い横から当てて影を薄く見せました。

今でこそ、撮影監督と照明監督は別ですが、小津の時代では撮影監督が両方を兼ねることもありました。彼はカメラ助手時代にデッサン用の石膏の像を買い、そこに懐中電灯をあてて照明を研究し、監督が思い描く絵作りをライティング技術で実現したのでした。


色のこだわり

当時の他の監督と比べて、小津のカラーへの移行はかなり遅くなりました。それにはいくつか理由が考えられます。例えば、小津の初のカラー作品となった「彼岸花」(1958)では、フィルムをアグファにするかコダックにするかでずいぶん悩みました。“アグファの赤はちょっと朱色になり、本当の赤はコダックのほうが出るが、コダックは空が変に青くなるのでNG”というように一長一短だったからです。

「彼岸花」(1958)予告編


小津監督はコダックの青から紺にかけてのシアンに振れる色をどうしても気に入らず、最終的にはアグファを選択しました。その結果、完成した作品は全体的に暖色系の色調となりました。小津映画の中で小道具等の赤色は大変印象に残りますが、実はこの赤は決して監督が満足していた色には到達していなかったのです。


厚田カメラマン引退

1963年小津監督が亡くなると、厚田カメラマンはすぐに引退を決意します。「自分は小津監督に始まり小津監督に終わるんだ」と述べています。小津映画で撮影監督を担当したのが15作品、助手時代を含めると、作品のほとんどすべてを担当しています。

小津組ではモノクロフィルム時代に多くの仕事をした厚田にとって、カラー時代への急激な変化は、明治生まれの職人カメラマンとして困難さを感じていたのかもしれません。

しかし、他の作品と比較して、小津映画の色作りの美しさは際立っています。それはモノクロの世界を知り尽くした職人だからこそ可能な色の世界だと言えます。

秋日和(1960年松竹作品)


カテゴリ:Movie

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