ユル・ブリンナーと「王様と私」
プロローグ
このBLOGの前の「Shall we Dance?アンナと王様」で原作の歴史的背景をかいつまんで紹介しましたが、続いてテーマ曲の元となった「王様と私」を取り上げてみます。日本でも人気が高かった故ユル・ブリンナーは、「王様と私」より「荒野の7人」の方が有名かもしれません。おそらく日本ではアメリカ映画の出演がほとんどのためアメリカ人と見られているかもしれませんが、アジアからヨーロッパ、そしてアメリカに渡った彼の人生は波乱に富んで、とてもインターナショナルです。

プロローグ
このBLOGの前の「Shall we Dance?アンナと王様」で原作の歴史的背景をかいつまんで紹介しましたが、続いてテーマ曲の元となった「王様と私」を取り上げてみます。日本でも人気が高かった故ユル・ブリンナーは、「王様と私」より「荒野の7人」の方が有名かもしれません。おそらく日本ではアメリカ映画の出演がほとんどのためアメリカ人と見られているかもしれませんが、アジアからヨーロッパ、そしてアメリカに渡った彼の人生は波乱に富んで、とてもインターナショナルです。

ユル・ブリンナーの「王様と私」が誕生するまで
1946年にレックス・ハリスン、アイリーン・ダン、リンダ・ダネールの主演で「アンナとシャム王」として映画化されました。この映画に感銘を受けたロジャース=ハマースタイン二世は、この作品のミュージカル化を計画します。

主人公のアンナ役を熱望した英国の大物女優ガートルード・ローレンスがアンナ役に抜擢され、シャム王役には46年の映画版で王様を演じたレックス・ハリソン(マイ・フェア・レディでも教授役を熱演)に打診されましたが、スケジュールの都合がつかず流れてしまいます。その後やはり大物舞台俳優ノエル・カワード他をテストしますが、ロジャース=ハマースタインIIはどうしても気に入りません。最後に以前競演したメアリー・マーティン(舞台サウンド・オブ・ミュージックのマリヤ役)の薦めで、「王様と私」のオーディションを受けました。そこで、オリエンタルな風貌のみならず、ジプシー民謡を歌ったユニークさが買われてシャム王役に大抜擢されました。

さらに舞台での成功が受けて映画化も行われ、ブリンナーが演じた王様役は高い評価を得、初ノミネートでいきなりアカデミー主演男優賞を獲得しています。舞台でもブリンナーの生涯の当たり役となり、1972年のテレビ版でも王様を演じ、舞台では初演から亡くなる直前の85年まで合計4625回も王様を演じています。
ユル・ブリンナー出生の秘密
ブリンナーはモンゴル人の父親とルーマニア系のジプシーの母親との間に生まれ、幼い頃に北京に移住して中国大陸を転々し、10歳の時にフランスに移住します。ジプシーから音楽の手ほどきを受けて13歳でパリのナイトクラブでギター弾きとなったと、サーカス団に入って空中ブランコの曲芸師として活躍します。その後演劇一座で演技を学びながら俳優を目指すかと思えば、フランスの名門大学ソルボンヌ大で哲学を学びます。41年にアメリカに渡り、ブロードウェイの舞台「Lute Song」ではメアリー・マーティンと共演を果たして注目を集め、当り役「王様と私」が51年2月26日に初演されると、ブリンナーの演技は大絶賛を浴び、一躍スターダムにのし上がりました。
ユル・ブリンナーは天然禿げではない
ユル・ブリンナーはその後に彼のプロデュースで大ヒットした黒澤監督の「7人の侍」のリメイク版「荒野の7人」で、黒尽くめの服装とつるつるの頭で存在感を出していましたが、生涯ほとんどの作品で髪の毛はありませんでした。彼は遺伝的な禿げであったかというとそうではありません。「王様と私」の舞台に出るまでは、髪はふさふさとありました。なぜ突如舞台が始まるとともに禿げになったかというと、舞台公演中に衣装デザイナーのアイリーン・シャラフの薦めでそり上げたからです。ブリンナーのオリエンタルなエキゾチックな容姿にツルツルの坊主頭が、独特の存在感を醸し出し、それ以降彼のトレード・マークとなりました。

Yul Brynner, 1946
壮絶な癌との闘い
最後にヘビー・スモーカーだったブリンナーは83年に肺癌の診断を受けて、癌の悪化で「王様と私」の続演が不可能となりました。それでも1985年の5月まで、初演以来4621回もの王様役を演じ続けました。しかし余命いくばくもないと感じたブリンナーは、死の直前に禁煙を訴えるテレビのコマーシャルに出演し、その癌に蝕まれた姿をTVに現しました。俳優生命に多大なダメージを与える出演に応じたのもブリンナーの最後にアメリカに対する恩返しだったのかもしれません。ジプシーの血が流れる彼に安住の地を与えてくれた国に彼は死を持って、喫煙の恐ろしさを訴えたのでした。
この運動はいまだに続いており、ユル・ブリンア・ファンデーションとして禁煙と癌撲滅運動を行っています。

1946年にレックス・ハリスン、アイリーン・ダン、リンダ・ダネールの主演で「アンナとシャム王」として映画化されました。この映画に感銘を受けたロジャース=ハマースタイン二世は、この作品のミュージカル化を計画します。

主人公のアンナ役を熱望した英国の大物女優ガートルード・ローレンスがアンナ役に抜擢され、シャム王役には46年の映画版で王様を演じたレックス・ハリソン(マイ・フェア・レディでも教授役を熱演)に打診されましたが、スケジュールの都合がつかず流れてしまいます。その後やはり大物舞台俳優ノエル・カワード他をテストしますが、ロジャース=ハマースタインIIはどうしても気に入りません。最後に以前競演したメアリー・マーティン(舞台サウンド・オブ・ミュージックのマリヤ役)の薦めで、「王様と私」のオーディションを受けました。そこで、オリエンタルな風貌のみならず、ジプシー民謡を歌ったユニークさが買われてシャム王役に大抜擢されました。

さらに舞台での成功が受けて映画化も行われ、ブリンナーが演じた王様役は高い評価を得、初ノミネートでいきなりアカデミー主演男優賞を獲得しています。舞台でもブリンナーの生涯の当たり役となり、1972年のテレビ版でも王様を演じ、舞台では初演から亡くなる直前の85年まで合計4625回も王様を演じています。
ユル・ブリンナー出生の秘密
ブリンナーはモンゴル人の父親とルーマニア系のジプシーの母親との間に生まれ、幼い頃に北京に移住して中国大陸を転々し、10歳の時にフランスに移住します。ジプシーから音楽の手ほどきを受けて13歳でパリのナイトクラブでギター弾きとなったと、サーカス団に入って空中ブランコの曲芸師として活躍します。その後演劇一座で演技を学びながら俳優を目指すかと思えば、フランスの名門大学ソルボンヌ大で哲学を学びます。41年にアメリカに渡り、ブロードウェイの舞台「Lute Song」ではメアリー・マーティンと共演を果たして注目を集め、当り役「王様と私」が51年2月26日に初演されると、ブリンナーの演技は大絶賛を浴び、一躍スターダムにのし上がりました。
ユル・ブリンナーは天然禿げではない
ユル・ブリンナーはその後に彼のプロデュースで大ヒットした黒澤監督の「7人の侍」のリメイク版「荒野の7人」で、黒尽くめの服装とつるつるの頭で存在感を出していましたが、生涯ほとんどの作品で髪の毛はありませんでした。彼は遺伝的な禿げであったかというとそうではありません。「王様と私」の舞台に出るまでは、髪はふさふさとありました。なぜ突如舞台が始まるとともに禿げになったかというと、舞台公演中に衣装デザイナーのアイリーン・シャラフの薦めでそり上げたからです。ブリンナーのオリエンタルなエキゾチックな容姿にツルツルの坊主頭が、独特の存在感を醸し出し、それ以降彼のトレード・マークとなりました。

Yul Brynner, 1946
壮絶な癌との闘い
最後にヘビー・スモーカーだったブリンナーは83年に肺癌の診断を受けて、癌の悪化で「王様と私」の続演が不可能となりました。それでも1985年の5月まで、初演以来4621回もの王様役を演じ続けました。しかし余命いくばくもないと感じたブリンナーは、死の直前に禁煙を訴えるテレビのコマーシャルに出演し、その癌に蝕まれた姿をTVに現しました。俳優生命に多大なダメージを与える出演に応じたのもブリンナーの最後にアメリカに対する恩返しだったのかもしれません。ジプシーの血が流れる彼に安住の地を与えてくれた国に彼は死を持って、喫煙の恐ろしさを訴えたのでした。
この運動はいまだに続いており、ユル・ブリンア・ファンデーションとして禁煙と癌撲滅運動を行っています。

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