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音楽の冗談

音楽、美術、映画、演劇、文学などの有名アーティストや、偉大な才能を持つ無名なアーティストたちに焦点を当て、彼らの業績や人生を一風違った視点で掘り下げます。

プロローグ

2006年6月末でビートルズの日本公演からちょうど40年経ち、WOWOWでも特集を組んでいました。また、ビートルズのリーダー的存在であったジョン・レノン(1940~80)がニューヨークの自宅のダコタ・ハウス前でマーク・チャップマンに至近距離から5発の銃弾を受けて他界したのは40歳のときでした。「ジョン」という名前は、成礼名のヨハネのことで、欧米では最もポピュラーな名前です。ここにもうひとり40歳で他界した偉大なミュージシャンがいます。ジャズ界の巨星ジョン・コルトレーン(1926~1967)は、若いころの不摂生が災いし、肝臓ガンのために病死します。肌の色も境遇も全く違うこの2人のジョンは奇しくも意外な共通点が多々見受けられます。

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ジョン・レノン(1940~80)
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ジャズ界の巨星ジョン・コルトレーン

生い立ち

コルトレーンは、ノースカロライナ州の田舎町ハムレットの生まれで、父は洋服仕立て職人の音楽好き、母は歌がうまく、かつてはオペラ歌手志望で音楽と教育学を学んだ人でした。しかし、音楽の手ほどきをしてくれた父は胃がんのためコルトレーンがまだ13歳のとき亡くなってしまいます。一方、レノンは田舎の漁村リヴァプール生まれで、生まれてまもなく船員として働いていた父が失踪し、母親は別の男性と暮らしていたため、ジュリアの姉にあたる伯母ミミ夫妻のもとで育てられることになります。母親のジュリアはジョンと定期的に会い、自ら奏でるバンジョーを通してジョンを音楽へ関心を向けさせます。しかしジュリアは、ジョンの16歳のとき不運な交通事故で亡くなり、この事件をきっかけにバンドメンバーであり、母親を乳癌で失ったポール・マッカートニーとの友情を深めていきます。

愛した女性

コルトレーンの最初の妻は、29歳のときに結婚したイスラム教徒のファニータ(回教名ナイーマ)で、代表曲のタイトルにもなっています。しかし、8年後に別居し、すぐにピアニストでもあるアリスと再婚します。アリスとの結婚生活はわずか3年ほどでしたが、コルトレーンのピアノを担当したアリスの影響力は、彼の音楽に反映されており、アリスはコルトレーンが他界した後も彼の音楽を後世に残す活動を継続し、息子もジャズミュージシャンになっています。
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左息子のラヴィ、右アリス・コルトレーン

一方、レノンの最初の妻はシンシア・パウエルで、22歳の美術学校の在学中に結婚しますが、10年後に離婚。再婚相手が前衛アーティストのオノ・ヨーコであり、彼女はご存知のようにビートルズ後のレノンの行き方に多大な影響を与え、レノンの死後も彼の音楽を後世に残るように様々な活動を継続しています。

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インド音楽

音楽的に興味深いのは、2人のジョンはインド音楽へ傾倒した点です。しかも彼らが師のように仰いだインドの音楽家は、シタール奏者の第一人者ラヴィ・シャンカールでした。シャンカールは単にシタールの演奏法だけでなくインドの文化や考え方2人に教えた人物です。コルトレーンは1961年からシャンカールと手紙のやり取りを通して、彼から様々な教えを受けるようになり、65年には本人にも会っています。さらに生まれてきた息子にはラヴィという名前を付けました。一方、レノンはシャンカールに心酔していたジョージ・ハリソンの影響で、インド音楽に興味を持ちはじめ、やがて彼の考えや生き方に共鳴していきます。その影響の表れとして、ビートルズのアルバム「ラバーソウル」に収録されている”ノ―ウェジアンウッド”では、シタールを初めて取り入れます。また、後の平和運動の源となる考えもラヴィの影響が強く現れています。

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ラヴィ・シャンカール

平和主義者

7月17日はジョン・コルトレーンの命日です。この日は奇しくもジャズ歌手ビリー・ホリディと石原裕次郎の命日でもあります。レノンは、12月8日に本人にとっても予想外な結末を迎えていますが、晩年に近くなるにつれ、無意識のうちか、もしくは妻オノ・ヨーコの影響なのか平和活動に費やしていきます。例えば、レノンはビートルズとしての最後の二年間に、オノ・ヨーコと共にベトナム戦争反対と平和運動に多くの時間を費やしています。ビートルズ解散後は、アルバム『イマジン』で、世界平和のハーモニーを賛歌するメッセージを世の中に送って若者に絶大な支持を集めました。
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有名な平和へのデモンストレーション「Bed in」@アムステルダム

一方コルトレーンは、同じニューヨークながら、肝臓ガンのための病死でした。若すぎる死の原因は、若いころのヘロイン中毒や中毒を和らげるために摂取したアルコールが引き起こした結果とも言えます。実際、マイルスは麻薬をやめようとしないコルトレーンに怒り、殴った上、解雇してしまいます。その後セロニアス・モンク(ピアニスト)について、自己のスタイルを確立していった話は有名ですが、1957年、31歳のときに自ら決意し、自宅の部屋に数日間こもり、酒と麻薬を完全に断ちます。このときの体験が、神によるスピリチュアルな交信があったと考えたコルトレーンはその後平和主義者に転じ、後年「聖者になりたい」という発言をするまでに至ります。1964年発表した「至上の愛 A Love Supreme」はコルトレーンの音楽的及び思想的の集大成とも言えるアルバムになりました。
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セロニアス・モンクとの競演

最後に、ファン心理として命日にはお墓参りをしたいところですが、コルトレーンの墓はニューヨーク郊外にあることが知られていますが、レノンの墓は、掘り返されることを懸念して所在地が公表されていません。一説によると日本にあるという噂もあります。
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2008/01/05(土) 07:24:18 | URL | みんな の プロフィール #-[ 編集]
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