プロローグ
アルト・サックス奏者の巨人チャーリー・パーカー(1920-1955)。独学で音楽を勉強しながら、若干15歳でプロデビュー、1940年代にはビ・バップジャズの黄金時代を築きます。即興演奏に主眼を置き、和製とリズムに於いて革新的な演奏スタイルはその後のモダンジャズに多大な影響をもたらしました。
しかしながら、パーカーの生き方は破滅型とも言えるスタイルで、麻薬、酒、女性関係、すべてに対して節操がなく、自らの命を縮めました。医師の死亡報告書には推定年齢が65歳と記入されましたが、享年34歳の若さでした。
このような破滅型人生を歩んだパーカーでしたが、晩年の数年間、平穏に過ごした時期があります。既に酒とドラッグに体は蝕まれ、精神的にも病んでいましたが、愛情を注げる妻とその連れ子が存在したからです。今回は最後の妻となった美しくき女性チャン・パーカーのお話です。
アルト・サックス奏者の巨人チャーリー・パーカー(1920-1955)。独学で音楽を勉強しながら、若干15歳でプロデビュー、1940年代にはビ・バップジャズの黄金時代を築きます。即興演奏に主眼を置き、和製とリズムに於いて革新的な演奏スタイルはその後のモダンジャズに多大な影響をもたらしました。
しかしながら、パーカーの生き方は破滅型とも言えるスタイルで、麻薬、酒、女性関係、すべてに対して節操がなく、自らの命を縮めました。医師の死亡報告書には推定年齢が65歳と記入されましたが、享年34歳の若さでした。
このような破滅型人生を歩んだパーカーでしたが、晩年の数年間、平穏に過ごした時期があります。既に酒とドラッグに体は蝕まれ、精神的にも病んでいましたが、愛情を注げる妻とその連れ子が存在したからです。今回は最後の妻となった美しくき女性チャン・パーカーのお話です。
愛称”バード“で呼んだ3人目のワイフ
チャーリー・パーカーがカンザスからジャズの本場ニューヨークにやってきたとき、演奏するどころか、食べていくのにも困る状況でした。仕方なく彼はチキン料理のレストランで慣れない皿洗いをしてチャンスを待ちました。このレストランで働く得点として、チキンの食べ放題がありました。パーカーは日頃の空腹の憂さもあったのでしょうか、いつも記録的なチキンの数を食べ、そこからバードというニックネームで呼ばれるようになりました。そして、彼をバードというニックネームで呼んだ最初で最後の妻がチャン・パーカー(1925-1999)です。
この中国名のような名前を持つチャンは、本名をチャン・リチャードソンといい、ブロードウェイの演出家を父に持つ白人ダンサーでした。聡明でしかも美しい容姿ゆえに、ニューヨーク・マンハッタンのジャズの中心地では、“52丁目の女王”と称され、多くのジャズメンが憧れた女性でした。
2人の出会いはチャンが18歳のときでした。ひと目でバードのオーラの輝きに引き付けられたチャンでしたが、すぐに恋人とはならず、良い友達関係を保ちました。その後、チャンはあるミュージシャンの子を生み、さらに別の男性と結婚/離婚を経ており、一方バードも2度の離婚を経験して、出会いから8年後の1951年になり2人は同棲を始めました。チャンは白人でしかも美人であったため、肌の色が違うカップルへの世間の目は非常に厳しかったですが、愛し合う2人はまったく意に介しませんでした。
バードの優しさを愛したチャンの人生
「彼は・・・私の知るどの男性とも違っていた。彼は2度結婚して、年若い息子と昔ながらの習慣(ドラッグ)を持っていた。私は彼が好きになった。」

チャン・パーカー
とチャン・パーカーの言葉にありますが、晩年の4年間、バードの薬中/アル中のひどい状態を知りながら、彼と生活を共にしたのは、音楽の才能だけでなく、彼のその優しさにありました。
同棲を始めたチャンは、自分の連れ子の幼いキム・パーカー(1946生まれ、後にジャズシンガー)が、黒人男性と暮らしていることで学校でつらい思いをしていないか気を揉んでいました。朝、学校に行く時間になるとキムは吐きそうになるほど緊張していたので、バードが原因かと尋ねたところ、キムは「いいえ、お父さん(バード)が手を取って始めて学校に連れて行ってくれたとき、気にならなくなったの。でもお母さんがそうしてくれないのが気になるの。」とこたえ、杞憂であったことを知ります。後のインタビューでチャンは、子供には肌の色など関係なかったと証言しています。実際、バードはキムを大変愛し、父親らしく育てたので、キムは彼をとても慕っていました。

チャーリー・パーカーの一家
チャンはパーカーと正式には結婚していなかったので、バードの死後、葬式や財産配分等で面倒な立場にありました。そんな中、生前のパーカーとも親交があった白人のサックス奏者フィル・ウッズは、未亡人チャンの相談に乗るなど親身になっていろいろと助けました。バードの影響を色濃く受けたフィルにとって、彼への尊敬の念がやがてチャンへの愛情と変わり、バードの死後3年経って2人は正式に結婚します。フィルは結婚後の1967年、ジャズ人気が高いフランスに活動の拠点を移しましたので、チャンも家族と一緒に移り住みます。その後、チャンはバードの音楽が愛されるフランスが気に入り、フィルがアメリカに戻っても、亡くなるまでパリの郊外に住み続けました。唯一、母国に戻ったのは、クリント・イーストウッド監督のチャーリー・パーカー伝記映画「BIRD」(1988)を監修したときです。
JAZZ歌手となったキム・パーカーの歌
最後に、マイルス・デイヴィスの言葉がチャンの人物像を端的に言い当てています。「チャンはドリス(前妻)より良かった。少なくともルックスはいいし、音楽とミュージシャンを理解していた。」
チャーリー・パーカーがカンザスからジャズの本場ニューヨークにやってきたとき、演奏するどころか、食べていくのにも困る状況でした。仕方なく彼はチキン料理のレストランで慣れない皿洗いをしてチャンスを待ちました。このレストランで働く得点として、チキンの食べ放題がありました。パーカーは日頃の空腹の憂さもあったのでしょうか、いつも記録的なチキンの数を食べ、そこからバードというニックネームで呼ばれるようになりました。そして、彼をバードというニックネームで呼んだ最初で最後の妻がチャン・パーカー(1925-1999)です。
この中国名のような名前を持つチャンは、本名をチャン・リチャードソンといい、ブロードウェイの演出家を父に持つ白人ダンサーでした。聡明でしかも美しい容姿ゆえに、ニューヨーク・マンハッタンのジャズの中心地では、“52丁目の女王”と称され、多くのジャズメンが憧れた女性でした。
2人の出会いはチャンが18歳のときでした。ひと目でバードのオーラの輝きに引き付けられたチャンでしたが、すぐに恋人とはならず、良い友達関係を保ちました。その後、チャンはあるミュージシャンの子を生み、さらに別の男性と結婚/離婚を経ており、一方バードも2度の離婚を経験して、出会いから8年後の1951年になり2人は同棲を始めました。チャンは白人でしかも美人であったため、肌の色が違うカップルへの世間の目は非常に厳しかったですが、愛し合う2人はまったく意に介しませんでした。
バードの優しさを愛したチャンの人生
「彼は・・・私の知るどの男性とも違っていた。彼は2度結婚して、年若い息子と昔ながらの習慣(ドラッグ)を持っていた。私は彼が好きになった。」

チャン・パーカー
とチャン・パーカーの言葉にありますが、晩年の4年間、バードの薬中/アル中のひどい状態を知りながら、彼と生活を共にしたのは、音楽の才能だけでなく、彼のその優しさにありました。
同棲を始めたチャンは、自分の連れ子の幼いキム・パーカー(1946生まれ、後にジャズシンガー)が、黒人男性と暮らしていることで学校でつらい思いをしていないか気を揉んでいました。朝、学校に行く時間になるとキムは吐きそうになるほど緊張していたので、バードが原因かと尋ねたところ、キムは「いいえ、お父さん(バード)が手を取って始めて学校に連れて行ってくれたとき、気にならなくなったの。でもお母さんがそうしてくれないのが気になるの。」とこたえ、杞憂であったことを知ります。後のインタビューでチャンは、子供には肌の色など関係なかったと証言しています。実際、バードはキムを大変愛し、父親らしく育てたので、キムは彼をとても慕っていました。

チャーリー・パーカーの一家
チャンはパーカーと正式には結婚していなかったので、バードの死後、葬式や財産配分等で面倒な立場にありました。そんな中、生前のパーカーとも親交があった白人のサックス奏者フィル・ウッズは、未亡人チャンの相談に乗るなど親身になっていろいろと助けました。バードの影響を色濃く受けたフィルにとって、彼への尊敬の念がやがてチャンへの愛情と変わり、バードの死後3年経って2人は正式に結婚します。フィルは結婚後の1967年、ジャズ人気が高いフランスに活動の拠点を移しましたので、チャンも家族と一緒に移り住みます。その後、チャンはバードの音楽が愛されるフランスが気に入り、フィルがアメリカに戻っても、亡くなるまでパリの郊外に住み続けました。唯一、母国に戻ったのは、クリント・イーストウッド監督のチャーリー・パーカー伝記映画「BIRD」(1988)を監修したときです。
JAZZ歌手となったキム・パーカーの歌
最後に、マイルス・デイヴィスの言葉がチャンの人物像を端的に言い当てています。「チャンはドリス(前妻)より良かった。少なくともルックスはいいし、音楽とミュージシャンを理解していた。」
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