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音楽の冗談

音楽、美術、映画、演劇、文学などの有名アーティストや、偉大な才能を持つ無名なアーティストたちに焦点を当て、彼らの業績や人生を一風違った視点で掘り下げます。

プロローグ

1950年代から60年代にかけて、米国は古き良き時代と呼ばれる一方、1950年代前半に吹き荒れた赤狩りや1962年のキューバ危機、翌年のケネディ暗殺と暗い一面もありました。この時代に、世界中の男たちを虜にする稀有なオーラを持った女優が、彗星のように現れ、大統領以上の知名度を持ちながら、若干36歳の若さで謎の死を遂げます。8月5日に命日を迎えるマリリン・モンロー(1926 -1962、以下MM)は、世界中の男性ファンを魅了しただけでなく、彼女と出会った多くの男性を虜にする不思議な魔力を備えていました。映画のイメージとは違い、狡猾といえるほどの野心と知性に溢れ、読書家で政治好き、その一方、生涯孤独感を抱え続け、晩年は精神病に悩まされ、ドラッグ(主に睡眠薬)と酒に溺れました。また、MMは美しい肉体美を備えながら、精神的には生い立ちに起因する苦悩から逃れることが出来ず、その脆さが権力ある男たちを虜にしました。今回は、MMの数々の男性遍歴の中で、彼女を愛した著名な男性を軸に、マリリン・モンローの人生とも言える「生きた、愛した、苦悩した」を検証してみます。


マリリン・モンロー主演映画「お熱いのがお好き」で歌われる中でも白眉の「I'm Through With Love」が収録されたビデオクリップ
マリリン・モンロー最初の結婚からスター誕生まで

マリリン・モンローの最初の夫は、16歳のとき孤児院戻りを避けるために、里親の勧めで結ばれた近所に住む5つ年上のロッキード社の整備工ジム・ドハティでした。4年後、スターを夢見てハリウッドに単独居を移し、最初の結婚生活は事実上終わります。この年1946年、芸名を「マリリン・モンロー」として女優業を目指しますが、しばらくは端役ばかりで、生活が苦しい間はヌードモデルやコールガールをしていました。1950年の映画出演あたりから、徐々に人気が上がっていき、2年後の26歳のとき、皮肉なことに売れない時期に撮影したヌードカレンダーが話題になり、一気に大ブレーク。セクシー女優として世の男性の注目の的になりました。この年の春、知り合いを通じて、ジョー・ディマジオ(1914-1999)からデートの誘いを受けましす。

マリリン・モンローを愛した野球界のヒーロー
ディマジオは、イタリア移民の子供としてサンフランシスコで生まれ、ニューヨーク・ヤンキースで大活躍。当時のアメリカ人にとってスーパーヒーローでした。日本の長島茂夫のような存在と言えば分かりやすいと思います。
さて、野球にほとんど無関心であったMMは、はじめはディマジオのデートの誘いに乗る気でありませんでした。美術史や詩集を愛読するMMにとってスポーツの世界は別世界。彼女の憧れは、3番目の夫となる当時新進気鋭の劇作家アーサー・ミラーのような知性派でした。しかし、ディマジオの根気強い誘いとマスコミに大きく取り上げられたこともあり、徐々にMMはディマジオを愛するようになり、結婚を真剣に考えました。
その一方で、ディマジオの目を盗んで、他の男性と浮名を流します。例えば、モンローウォークの原点となった「ナイヤガラ」(1953年公開)の撮影中に、既に恋人関係だったディマジオを差し置いて、ロケ地で昔の恋人との逢瀬を重ねています。この矛盾ある行動はMMの生涯を通して続きます。
シチリア出身の漁師の8番目子供として生まれたディマジオにとって、女性は家庭に入り貞淑であるのが当然であり、MMの行動は全く理解できませんでした。そのため、結婚後は喧嘩が絶えず、嫉妬に狂ったディマジオは、時には暴力を振ることさえありました。結局、1954年の新婚旅行で日本を訪れて間もなく、わずか274日の結婚生活に終止符を打っています。しかしながら、興味深いのは、ディマジオがその後一生MMを愛し続け、MMの死後も墓にバラを絶やさなかったことです。

ジョー・ディマジオのマリリンの愛をうたったビデオクリップ。MMの葬式の様子も収録されています。


マリリン・モンローを愛した文壇の大物

MMがアーサー・ミラーと初めて会ったのは、24歳のとき、まだスターの座に上りつめる前でした。ディマジオと離婚した翌年の1955年、29歳となり世界的な人気を得たMMにとって、既に劇作家としての地位を確立したミラーは以前より身近に感じることができました。ミラー自身も、結婚して15年になる妻とは離婚寸前であり、11歳年下のMMの不思議な魅力に惹き付けられ、冷静なミラー本人曰く「雄という動物から本来の性質を引き出す」というほどMMに夢中になってしまいます。しかしながら、この蜜月は長く続きませんでした。1956年の結婚を前後して、MMの精神状態が不安定になり、睡眠薬を飲みすぎて死にかけることが何度か起きました。原因がいろいろ言われていますが、ミラーとの間で2度流産したことが一因と言えます。その後、MMの情緒不安定に振り回されるミラーは、妻のために脚本を書いた「荒馬と女」(1961)の撮影現場で、問題ばかり起こすMMのクレーム処理的な“主夫”の役割を演じるはめになります。さらに前年の「恋をしましょう」で共演した仏俳優イブ・モンタンにMMが本当に恋してしまい、夫婦関係は破綻していました。この時期、ミラーの作品がほとんど発表されなかったのも、MMとの悲惨な結婚生活によるものと言えます。結局、「正確の不一致」という理由で、4年半の結婚生活にピリオドを打ちます。


モンローの看板曲となった「I Wanna Be Loved By You」をバッグに1957年、58年の写真集。アーサーミラーとのツーショットが作品の中ごろに挿入されています。

マリリン・モンローに関しては、ファーストレディを夢見た最後の恋と死にまつわるエピソードを次のBLOGで紹介します。
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