プロローグ
先ごろ公開された映画「エディット・ピアフ-愛の讃歌-」により、シャンソンが久しぶりに見直しされています。フランスの国民的歌手であるエディット・ピアフ(1915年- 1963年、ピアフは芸名-小雀の意味)は、47年の短い生涯を精一杯に愛し、歌い、生きた女性として、現在もフランス人の心の中に記憶されています。フランスでは何度か彼女の伝記映画が製作されましたが、ピアフの大ヒット曲にまつわるいくつかの恋愛物語が必ずストーリーの中核となっています。
ピアフが赤ん坊のころ、母親は失踪、父は戦場に赴き、売春宿を営む祖母に預けられました。ミルク代わりにワインを飲ませたためか、幼い時に1度失明寸前に陥っています。また、子供のころの栄養失調のせいか、成人しても身長はわずか142cm、グラマーでも泣く、決して美人顔でもありません。しかし、ピアフは多くの男性を虜にしていきます。今回は、ピアフの恋愛小説を少し紐解いてみます。
今回はYouTubeをフルに使ったBLOGにしました。文中紹介している名曲や紹介人物を映像で見ることができます。
名曲「ばら色の人生」にのって若いころから晩年までピアフの写真集が紹介されます。また親友のマリーネ・ディートリッヒや最後の夫となった20歳年下テオ・サラポも出ています。
先ごろ公開された映画「エディット・ピアフ-愛の讃歌-」により、シャンソンが久しぶりに見直しされています。フランスの国民的歌手であるエディット・ピアフ(1915年- 1963年、ピアフは芸名-小雀の意味)は、47年の短い生涯を精一杯に愛し、歌い、生きた女性として、現在もフランス人の心の中に記憶されています。フランスでは何度か彼女の伝記映画が製作されましたが、ピアフの大ヒット曲にまつわるいくつかの恋愛物語が必ずストーリーの中核となっています。
ピアフが赤ん坊のころ、母親は失踪、父は戦場に赴き、売春宿を営む祖母に預けられました。ミルク代わりにワインを飲ませたためか、幼い時に1度失明寸前に陥っています。また、子供のころの栄養失調のせいか、成人しても身長はわずか142cm、グラマーでも泣く、決して美人顔でもありません。しかし、ピアフは多くの男性を虜にしていきます。今回は、ピアフの恋愛小説を少し紐解いてみます。
今回はYouTubeをフルに使ったBLOGにしました。文中紹介している名曲や紹介人物を映像で見ることができます。
名曲「ばら色の人生」にのって若いころから晩年までピアフの写真集が紹介されます。また親友のマリーネ・ディートリッヒや最後の夫となった20歳年下テオ・サラポも出ています。
ピアフの恋のパターン
ピアフが愛した相手を大きく分けると「駄目男」「先生」「育成」「本命」「献身」に分けられます。例えば、16歳のとき一つ年上の運送店勤務のプティ・ルイと駆け落ち、安ホテルで同棲生活を始めました。恋人がいながら、ピアフは外人部隊の兵隊との情事に溺れ、果てには2歳半の娘を脳膜炎で死なせてしまい、同時に夫にも出て行かれます。すべてを失ったピアフは、水夫、騎兵隊、元炭鉱夫と3人の甲斐性がない「駄目男」を情夫に持ち、貢いだ男にはピストルで撃たれる始末でした。
そんな苦境でも、救いは娼婦やポン引きがたむろする街角で生活のために歌い続けることでした。これが偶然にキャバレーのオーナー、ルイ・ルプの目にとまりました。ルイ・ルプは小柄ながら、その圧倒的な声量とビブラートかかかった歌声に、ダイアモンドの原石を見出したのです。彼はすぐに彼女を“ラ・モーム・ピアフ”の名でデビューさせ、店は直ちに大評判をとるようになります。
子弟愛
次に恋人となったのは「先生」タイプです。父親のような存在であったルイ・ルプが何者かに殺害され、その容疑者として捕らえられたピアフは、絶望のあまり、昔の惨めな生活に戻るところまで追い詰められます。そんななか、手を差し伸べたのが、詩人であり、作詞家でもあったレイモン・アッソです。
ピアフの声量も歌い方もキャバレーでは大評判でしたが、天賦の才も独学による歌唱法では、真の一流になれません。アッソはピアフにシャンソンの正しい歌い方を3年近くかけて徹底的に仕込みました。彼女のシャンソン歌手としての基礎作りがここで完了したのです。一流の歌い手になったと確信した後、アッソは彼女のステージ名を「エディット・ピアフ」に改名させ、1937年春にABC劇場に初出演させました。さらに初期のヒット曲の多くを作詞し、プロデュースしました。ピアフとアッソはその間、同棲していましたが、ピアフの言葉によれば、彼はピアフを愛人にするわけでもなく、物理的にも何も求めませんでした。アッソとは、彼が戦場に赴くことになり、別れとなりました。戦場から帰ってきた後もしばらく、ピアフの音楽監督のような存在でした。
年下の恋人を育成
3番目のタイプは「育成」です。1944年7月、「ムーラン・ルージュ」に出演中であったピアフが当時駆け出しの無名歌手イヴ・モンタン(1921~91)をテストして、彼を出演させます。実は、30歳近いピアフが7つ年下のハンサムなモンタンを一目で気に入ったためです。ピアフはJazzぽいモンタンの歌い方を改めさせ、シャンソンの基礎を教え、一流のシャンソン歌手に育てあげました。さらに映画にも売り込み、1946年に出演した「夜の門」の主題歌「枯葉」が世界的に大ヒットし、モンタンは一躍世界スターになりました。
モンタンとの関係はわずか2年余りでした。彼がピアフ以上に人気を得るに従い、2人の関係が崩れていったのです。この時の甘い生活を想い、別れを決意したときに書いた名曲が「ばら色の人生」です。
かのマリリンモンローも夢中になった伊達男モンタンの枯葉のミュージックビデオです。モンタンがピアフに会う前は、Jazzに傾倒していました。
「育成」の愛し方では、フランスの大歌手シャルル・アズナヴール(1924~ )も忘れられません。ピアフはアズナヴールの才能をいち早く認め、国内と米国の公演に連れて行き、前座を務めさせたのです。ピアフの後ろ盾により、アズナヴールはすぐに人気歌手の仲間入りができただけでなく、映画でも活躍し始めました。ピアフの死後、フランスを代表する歌手として認められるほどになったのは周知のとおりです。
余談ですが、映画「ノッティングヒルの恋人」(1999年)でエルヴィス・コステロが歌う「She」が効果的に使われ、ヒットしました。この原曲はアズナヴール「忘れじの面影」で、コステロが編曲したバージョンがリバイバルヒットしたものです。
本家シャルル・アズナヴールの「She」のビデオクリップ
ピアフ「本命」の恋
ピアフが生涯を通して、欲得なく心底愛したのはカサブランカ生まれのマルセル・セルダン(1916-1949)という世界ミドル級チャンピオンになった男です。セルダンは18歳でプロデビュー後、連戦連勝。2つの不運な反則負けがなければ、104勝という記録をたてられたかもしれないフランス最強のボクサーです。
1947年、ピアフがアメリカ公演中にセルダンと運命的な出会いをします。ピアフにとってセルダンは「先生」でもなく「育成」でもない、本当に愛だけを捧げられる男性でしたが、出会ってから間もなくして、妻子あるセルダンとのいつかは訪れる終りを意識し「愛の讃歌」を密かに書きあげます。終りは意外な形で早く訪れます。互いに仕事の関係でパリとニューヨークで離れ離れだったので、初防衛戦で破れ、再戦のため米国を再訪するセルダンが旅たつ間際、ピアフは1秒でも早く会いたい電話で懇願するのでした。セルダンは船から飛行機に変えて出発しますが、皮肉なことに搭乗した飛行機が墜落し、永遠に続くと思われた恋は2年間で儚く終りを告げます。
マルセル・セルダンの数々のボクシング試合がピアフの「愛の賛歌」の歌をバックに紹介されています。2人のツーショットを見ると、本当に幸せそうです。
悲しみを忘れて
ピアフがセルダンの死を知ったその夜にマンハッタンのクラブで公演がありました。14歳年上の親友マリーネ・ディートリッヒは、未発表の「愛の讃歌」には死を暗示する歌詞があるので歌わないように諭しますが(日本語訳はかなり変更されています。原詩と訳詩を比較した参考ページ)、深い悲しみにより立つこともままならない状態にも関わらず、セルダンのために歌いきります。
その後、ピアフは自分がセルダンを殺したと考えるようになり、ディートリッヒと一緒に交霊術を行ったりしますが、悲しみは癒されず、モルヒネを多用するようになりました、薬の副作用と麻薬の常用により、40代半ばで、体はぼろぼろとなっていきます。
そんな中、ピアフのファンであり、最後の夫となった20歳年下テオ・サラポが、「献身的な愛」をピアフに注ぎ、歌の世界にカムバックさせました。ピアフは舞台で自分のからだを支えているのがやっとでしたが、渾身の歌唱により多くの人びとを感動させました。しかし、壊れたからだは完全には回復せず、47歳の若さで、夫テオに看取られながら、静かに人生の幕を閉じます。ピアフには莫大な借金が残っていましが、テオが後年、歌手として働いた収入から全額返済しました。
「愛の賛歌」の映画版が入っている珍しいビデオクリップです。約8分間にピアフの様々な写真が入っており、かなり見ごたえがあります。
ピアフが愛した相手を大きく分けると「駄目男」「先生」「育成」「本命」「献身」に分けられます。例えば、16歳のとき一つ年上の運送店勤務のプティ・ルイと駆け落ち、安ホテルで同棲生活を始めました。恋人がいながら、ピアフは外人部隊の兵隊との情事に溺れ、果てには2歳半の娘を脳膜炎で死なせてしまい、同時に夫にも出て行かれます。すべてを失ったピアフは、水夫、騎兵隊、元炭鉱夫と3人の甲斐性がない「駄目男」を情夫に持ち、貢いだ男にはピストルで撃たれる始末でした。
そんな苦境でも、救いは娼婦やポン引きがたむろする街角で生活のために歌い続けることでした。これが偶然にキャバレーのオーナー、ルイ・ルプの目にとまりました。ルイ・ルプは小柄ながら、その圧倒的な声量とビブラートかかかった歌声に、ダイアモンドの原石を見出したのです。彼はすぐに彼女を“ラ・モーム・ピアフ”の名でデビューさせ、店は直ちに大評判をとるようになります。
子弟愛
次に恋人となったのは「先生」タイプです。父親のような存在であったルイ・ルプが何者かに殺害され、その容疑者として捕らえられたピアフは、絶望のあまり、昔の惨めな生活に戻るところまで追い詰められます。そんななか、手を差し伸べたのが、詩人であり、作詞家でもあったレイモン・アッソです。
ピアフの声量も歌い方もキャバレーでは大評判でしたが、天賦の才も独学による歌唱法では、真の一流になれません。アッソはピアフにシャンソンの正しい歌い方を3年近くかけて徹底的に仕込みました。彼女のシャンソン歌手としての基礎作りがここで完了したのです。一流の歌い手になったと確信した後、アッソは彼女のステージ名を「エディット・ピアフ」に改名させ、1937年春にABC劇場に初出演させました。さらに初期のヒット曲の多くを作詞し、プロデュースしました。ピアフとアッソはその間、同棲していましたが、ピアフの言葉によれば、彼はピアフを愛人にするわけでもなく、物理的にも何も求めませんでした。アッソとは、彼が戦場に赴くことになり、別れとなりました。戦場から帰ってきた後もしばらく、ピアフの音楽監督のような存在でした。
年下の恋人を育成
3番目のタイプは「育成」です。1944年7月、「ムーラン・ルージュ」に出演中であったピアフが当時駆け出しの無名歌手イヴ・モンタン(1921~91)をテストして、彼を出演させます。実は、30歳近いピアフが7つ年下のハンサムなモンタンを一目で気に入ったためです。ピアフはJazzぽいモンタンの歌い方を改めさせ、シャンソンの基礎を教え、一流のシャンソン歌手に育てあげました。さらに映画にも売り込み、1946年に出演した「夜の門」の主題歌「枯葉」が世界的に大ヒットし、モンタンは一躍世界スターになりました。
モンタンとの関係はわずか2年余りでした。彼がピアフ以上に人気を得るに従い、2人の関係が崩れていったのです。この時の甘い生活を想い、別れを決意したときに書いた名曲が「ばら色の人生」です。
かのマリリンモンローも夢中になった伊達男モンタンの枯葉のミュージックビデオです。モンタンがピアフに会う前は、Jazzに傾倒していました。
「育成」の愛し方では、フランスの大歌手シャルル・アズナヴール(1924~ )も忘れられません。ピアフはアズナヴールの才能をいち早く認め、国内と米国の公演に連れて行き、前座を務めさせたのです。ピアフの後ろ盾により、アズナヴールはすぐに人気歌手の仲間入りができただけでなく、映画でも活躍し始めました。ピアフの死後、フランスを代表する歌手として認められるほどになったのは周知のとおりです。
余談ですが、映画「ノッティングヒルの恋人」(1999年)でエルヴィス・コステロが歌う「She」が効果的に使われ、ヒットしました。この原曲はアズナヴール「忘れじの面影」で、コステロが編曲したバージョンがリバイバルヒットしたものです。
本家シャルル・アズナヴールの「She」のビデオクリップ
ピアフ「本命」の恋
ピアフが生涯を通して、欲得なく心底愛したのはカサブランカ生まれのマルセル・セルダン(1916-1949)という世界ミドル級チャンピオンになった男です。セルダンは18歳でプロデビュー後、連戦連勝。2つの不運な反則負けがなければ、104勝という記録をたてられたかもしれないフランス最強のボクサーです。
1947年、ピアフがアメリカ公演中にセルダンと運命的な出会いをします。ピアフにとってセルダンは「先生」でもなく「育成」でもない、本当に愛だけを捧げられる男性でしたが、出会ってから間もなくして、妻子あるセルダンとのいつかは訪れる終りを意識し「愛の讃歌」を密かに書きあげます。終りは意外な形で早く訪れます。互いに仕事の関係でパリとニューヨークで離れ離れだったので、初防衛戦で破れ、再戦のため米国を再訪するセルダンが旅たつ間際、ピアフは1秒でも早く会いたい電話で懇願するのでした。セルダンは船から飛行機に変えて出発しますが、皮肉なことに搭乗した飛行機が墜落し、永遠に続くと思われた恋は2年間で儚く終りを告げます。
マルセル・セルダンの数々のボクシング試合がピアフの「愛の賛歌」の歌をバックに紹介されています。2人のツーショットを見ると、本当に幸せそうです。
悲しみを忘れて
ピアフがセルダンの死を知ったその夜にマンハッタンのクラブで公演がありました。14歳年上の親友マリーネ・ディートリッヒは、未発表の「愛の讃歌」には死を暗示する歌詞があるので歌わないように諭しますが(日本語訳はかなり変更されています。原詩と訳詩を比較した参考ページ)、深い悲しみにより立つこともままならない状態にも関わらず、セルダンのために歌いきります。
その後、ピアフは自分がセルダンを殺したと考えるようになり、ディートリッヒと一緒に交霊術を行ったりしますが、悲しみは癒されず、モルヒネを多用するようになりました、薬の副作用と麻薬の常用により、40代半ばで、体はぼろぼろとなっていきます。
そんな中、ピアフのファンであり、最後の夫となった20歳年下テオ・サラポが、「献身的な愛」をピアフに注ぎ、歌の世界にカムバックさせました。ピアフは舞台で自分のからだを支えているのがやっとでしたが、渾身の歌唱により多くの人びとを感動させました。しかし、壊れたからだは完全には回復せず、47歳の若さで、夫テオに看取られながら、静かに人生の幕を閉じます。ピアフには莫大な借金が残っていましが、テオが後年、歌手として働いた収入から全額返済しました。
「愛の賛歌」の映画版が入っている珍しいビデオクリップです。約8分間にピアフの様々な写真が入っており、かなり見ごたえがあります。
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