プロローグ
“My Foolish Heart”はビル・エバンス・トリオ(リバーサイド版)によるこの上もなく美しい演奏で良く知られており、ジャズの定番名曲となっています。この曲は、元は映画の主題歌で、第二次世界大戦を挟んでハリウッドの映画音楽家として活躍したヴィクター・ヤングの作曲によるものです。
1964年演奏 Bill Evans : piano,Larry bunker : drum , Chuck Israel : bass.
「My Foolish Heart 邦題:愚かなり我が心」(1949)はアカデミー賞にノミネートされた作品ですが、当初、結婚に破綻して酒に溺れる女性を描いた内容がシリアスすぎたのか,日本公開の予定はありませんでした。しかしながら、ジャズ歌手ビリー・エクスタインが主題歌を大ヒットさせたのがきっかけで、その後日本でも進駐軍のラジオを通してこの曲の人気に火が付き、1953年になって映画も公開されました。
ヤングは他に“Stella By Starlight”“When I Fall In Love”などの今日のジャズのスタンダードと言われている作品を多く書いていますが、「シェーン」(1953)や「八十日間世界一周」(1956)などの名作映画の主題歌も書いています。
生涯350曲もの美しい作品を残したヤングでしたが、一つだけ憂鬱がありました。どんなに美しい曲を書き、人々から愛されるスタンダードを生んでも、アカデミー賞だけは受賞できなかったのです。今回はヤングの生涯と彼の憂鬱に焦点を当ててみます。
映画「Sleepless in Seattle」で“When I Fall In Love”がうまく使われた。
“My Foolish Heart”はビル・エバンス・トリオ(リバーサイド版)によるこの上もなく美しい演奏で良く知られており、ジャズの定番名曲となっています。この曲は、元は映画の主題歌で、第二次世界大戦を挟んでハリウッドの映画音楽家として活躍したヴィクター・ヤングの作曲によるものです。
1964年演奏 Bill Evans : piano,Larry bunker : drum , Chuck Israel : bass.
「My Foolish Heart 邦題:愚かなり我が心」(1949)はアカデミー賞にノミネートされた作品ですが、当初、結婚に破綻して酒に溺れる女性を描いた内容がシリアスすぎたのか,日本公開の予定はありませんでした。しかしながら、ジャズ歌手ビリー・エクスタインが主題歌を大ヒットさせたのがきっかけで、その後日本でも進駐軍のラジオを通してこの曲の人気に火が付き、1953年になって映画も公開されました。
ヤングは他に“Stella By Starlight”“When I Fall In Love”などの今日のジャズのスタンダードと言われている作品を多く書いていますが、「シェーン」(1953)や「八十日間世界一周」(1956)などの名作映画の主題歌も書いています。
生涯350曲もの美しい作品を残したヤングでしたが、一つだけ憂鬱がありました。どんなに美しい曲を書き、人々から愛されるスタンダードを生んでも、アカデミー賞だけは受賞できなかったのです。今回はヤングの生涯と彼の憂鬱に焦点を当ててみます。
映画「Sleepless in Seattle」で“When I Fall In Love”がうまく使われた。
神童ヴァイオリニスト、戦争で挫折
ヴィクター・ヤングは、1900年8月に米シカゴ市で、ポーランド系ユダヤ人のオペラ歌手の息子として生まれました。6歳のころよりヴァイオリンを習い始めましたが、10歳の時に母親の急死がきっかけで、ポーランドのワルシャワにいる祖母のところに預けられました。そこで、ヤングはワルシャワ音楽院に入学し、ヴァイオリンの才能を伸ばし、わずか13歳でワルシャワ・フィルハーモニーに入団、ソリスト・デビューを果たしています。その天才ぶりが買われて、ロシアを中心にコンサート活動をしますが、第一次世界大戦が勃発して、音楽活動はやむなく中断。さらにユダヤ人であるため、身の危険を感じて1920年、アメリカに帰国します。
映画「シェーン」のタイトル曲
しかし、母国ではヴァイオン奏者として受け入れてもらえず、仕方なく無声映画時代の映画館のオーケストラ・マスターの仕事で生活の糧を得ます。悪いことに映画はトーキーに移り、映画館オーケストラは不要となり、間もなくヤングは職を失ってしまいます。
彼は、心機一転、クラシック音楽で生計を立てることをあきらめ、大衆音楽への転身を決意します。
手始めにテッド・フィオリト楽団にヴァイオリン奏者兼アレンジャーとして入団し、1928年からはラジオ放送局を中心にバンド活動を行っていきます。これがヤングとショービジネスのつながりを生み、1930年に入りビング・クロスビーとの交流が始まります。クロスビーとの縁がきっかけとなり、映画界から声がかかり、1936年、36歳でパラマウント映画のミュージック・ディレクターに就任します。
映画音楽の価値を高めた功績
ヴィクター・ヤング以前のミュージカル以外の映画音楽は、無声映画時代の流れのまま、単なる付随音楽で、主役にはなり得ませんでした。しかし、彼の作曲した映画音楽は、その美しいメロディーで、映画を観終わった後でも深く印象に残ります。そのため、映画を離れても彼の音楽は人々に愛され、さまざまなジャンルで演奏されるようになったのです。
ヤングは1936年から亡くなる1956年までの二十年間にヴィクターは350本もの作品を手がけました。これだけ膨大な作品に関与したため、アカデミー主題歌賞、音楽賞には22回もノミネートされましたが、生前にオスカーを手にすることはできませんでした。それは当時のアカデミー審査委員の風潮として、シンプルで美しいメロディーの映画音楽の主題歌が売れるようになると、映画製作会社は主題歌の商業的成功にばかり目を向けるようになり、本来のサウンドトラックとして映画音楽の受賞目的とは違うと見られたからでした。実際、ヴィクターの音楽はそれ自体ひとつの作品として今でも歌い続けられている一方、映画そのものが再度上映される機会があまりありません。つまり、アカデミー賞の審査委員が当時危惧したように、作品によっては音楽の方が映画より後世に残ることを実証したわけです。
「八十日間世界一周」オープニングタイトル音楽
ヴィクターはアカデミー賞が取れなくても、がむしゃらに働き続けました。恐らく音楽界に見返したい気持ちがあったのでしょう。しかも、医者の警告を無視して、酒もタバコもやめずに働き続けたため、わずか57歳で過労のために亡くなってしまいます。
皮肉なことに、1956年のヤングの死後5ヶ月後に開催された第29回アカデミー賞では、遅まきながら彼の映画界に対する功績がやっと認められて、「八十日間世界一周」により念願の作曲賞を受賞しました。
「八十日間世界一周」宣伝フィルム
ヴィクター・ヤングは、1900年8月に米シカゴ市で、ポーランド系ユダヤ人のオペラ歌手の息子として生まれました。6歳のころよりヴァイオリンを習い始めましたが、10歳の時に母親の急死がきっかけで、ポーランドのワルシャワにいる祖母のところに預けられました。そこで、ヤングはワルシャワ音楽院に入学し、ヴァイオリンの才能を伸ばし、わずか13歳でワルシャワ・フィルハーモニーに入団、ソリスト・デビューを果たしています。その天才ぶりが買われて、ロシアを中心にコンサート活動をしますが、第一次世界大戦が勃発して、音楽活動はやむなく中断。さらにユダヤ人であるため、身の危険を感じて1920年、アメリカに帰国します。
映画「シェーン」のタイトル曲
しかし、母国ではヴァイオン奏者として受け入れてもらえず、仕方なく無声映画時代の映画館のオーケストラ・マスターの仕事で生活の糧を得ます。悪いことに映画はトーキーに移り、映画館オーケストラは不要となり、間もなくヤングは職を失ってしまいます。
彼は、心機一転、クラシック音楽で生計を立てることをあきらめ、大衆音楽への転身を決意します。
手始めにテッド・フィオリト楽団にヴァイオリン奏者兼アレンジャーとして入団し、1928年からはラジオ放送局を中心にバンド活動を行っていきます。これがヤングとショービジネスのつながりを生み、1930年に入りビング・クロスビーとの交流が始まります。クロスビーとの縁がきっかけとなり、映画界から声がかかり、1936年、36歳でパラマウント映画のミュージック・ディレクターに就任します。
映画音楽の価値を高めた功績
ヴィクター・ヤング以前のミュージカル以外の映画音楽は、無声映画時代の流れのまま、単なる付随音楽で、主役にはなり得ませんでした。しかし、彼の作曲した映画音楽は、その美しいメロディーで、映画を観終わった後でも深く印象に残ります。そのため、映画を離れても彼の音楽は人々に愛され、さまざまなジャンルで演奏されるようになったのです。
ヤングは1936年から亡くなる1956年までの二十年間にヴィクターは350本もの作品を手がけました。これだけ膨大な作品に関与したため、アカデミー主題歌賞、音楽賞には22回もノミネートされましたが、生前にオスカーを手にすることはできませんでした。それは当時のアカデミー審査委員の風潮として、シンプルで美しいメロディーの映画音楽の主題歌が売れるようになると、映画製作会社は主題歌の商業的成功にばかり目を向けるようになり、本来のサウンドトラックとして映画音楽の受賞目的とは違うと見られたからでした。実際、ヴィクターの音楽はそれ自体ひとつの作品として今でも歌い続けられている一方、映画そのものが再度上映される機会があまりありません。つまり、アカデミー賞の審査委員が当時危惧したように、作品によっては音楽の方が映画より後世に残ることを実証したわけです。
「八十日間世界一周」オープニングタイトル音楽
ヴィクターはアカデミー賞が取れなくても、がむしゃらに働き続けました。恐らく音楽界に見返したい気持ちがあったのでしょう。しかも、医者の警告を無視して、酒もタバコもやめずに働き続けたため、わずか57歳で過労のために亡くなってしまいます。
皮肉なことに、1956年のヤングの死後5ヶ月後に開催された第29回アカデミー賞では、遅まきながら彼の映画界に対する功績がやっと認められて、「八十日間世界一周」により念願の作曲賞を受賞しました。
「八十日間世界一周」宣伝フィルム
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